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片足鳥居
鳥居には
掌と掌を合わせて
ググッと押し合う
楽しい力のバランスがある
そう知ったのは
原爆の爆風で親しい半分を失った
片足鳥居を見てからだった
山王神社へのわずかな階段を上がると
片足の鳥居が立っている
迷子のように不安で
寂しさに耐えかねて座り込む
片足鳥居にはそんな
今にもズンと地面のなかに沈んでいきそうな
疲れた石の重みがあった
好きな人と手をつなぐと
そこから輪になって
ふたりの力がふたりの体をぐるぐる回る
嬉しいと楽しいが追いかけっこをしながら
背中のあたりに陽だまりを作る
きっと抱きしめられた小犬はこんな気持ち
けれども半分の鳥居はもうずっと
何かに結ばれようと差しのべたまま
今日も冷たく冬の町に立っている
(2002年11月、森本かず子さんの詩より。)
君が初めて私に「好きだ」と言ってくれた。
涙がポロって出た!どう受け止めたらいいのか分からなくて何も返事出来ないよ。
私は君から「好き」という言葉を聞けただけで、もう満足だよ。 。゚(゚´Д`゚)゜。
私の恋が、何故かここへ来て急速に動き出した!
前回の記事で書いたけど、山王神社で引いたおみくじが、そのまんまになった。
お参りをしている時にちょうど彼からメールが来て、思わず写メールしたのだ。
もう自分から終わりを告げようと、そう思っていた矢先だった。
ねぇ、片足鳥居さん。遠い長崎の地から、彼に何を伝えたの?
だけどね、私は自信がないんです。
「もーっ!長崎って路面電車走ってて右折が怖いし道は狭いし、坂が多いし・・・」
そうぶつくさ言ってた矢先、見えた。坂本町の十八銀行の突き当たり、長い石段の上に彼は立っていた。
鳥肌がたった。
長崎へはもう何度も訪れているけど、ここへ来たのは初めてだった。
1945年8月9日、長崎に投下された原爆の爆風で、爆心側の左側が吹き飛ばされてしまったものの、
右側だけは奇跡的に一本柱の状態で今現在まで残っている。
あんな惨劇に遭っても片足で一生懸命立っている姿が、つまづいて落ち込んでいた私をちっちゃくさせた!
原爆の恐ろしさを主張している強さがあるものの、何故かとてもやさしい。
それはこの鳥居が、かつては女性だけの寄付で建立されたものだからかもしれない。
この鳥居の先に、山王神社があり、そこには被爆したクスの木が立っていた。
お参りでもしようと思い境内に入る。おみくじを引いたら大吉だった。
まだ赤ちゃんの猫を大きなタライに入れて隠すように神社の裏手に連れて行く4人の少年たち。
そして被爆して片方の目を失ったらしいおじいさん。
おじいさんは私を見ると顔をそむけた。
何も言わなかったけど、片足鳥居と一緒に長崎の原爆を体験した生き証人だと感じた。
せっかく長崎まで来たのだし、長崎県美術館に福山雅治の写真展を観に行った。
『f5.6のハロー1/125のサヨナラ』という写真集が出される出されているらしい。
カメラをやっているからこの意味が解った。
私は全く彼のファンではないけど、ミーハー心も少しは働いたのもあったが、
彼の撮った「軍艦島」の写真を見たかったのだ!
彼の写真も素敵だったけど、私が特に印象に残ったのは
彼が写真を学んだ師である、故・植田正治さんの
1949年~1950年に鳥取砂丘で撮られた古い写真。
古いんだけどスーツ姿の男や着物を着た奥様が広い砂丘に立っている写真で、なんか新しい。
鳥取砂丘へは一度20代前半に訪れているのだが、また行きたくなった。
そしてやはり軍艦島も生きている限り一度は見てみたい。
彼の生まれた地・長崎の街。
どこか昔の尾崎豊を思わせる若い福山雅治と、片足鳥居の写真もあった。
長崎って、色々な意味でとても良い街だな~と思った。
1000円で見られる写真展、もし機会があれば観に行ってはいかがでしょうか?(長崎へ行く方がお金がかかる。)
と言っても明日25日で終わってしまいますが(´∀`;。
福岡では今日は土砂降りだ。きっと「長崎は今日も雨だった」んだろう。
「どうしたら僕ら 答えを見つけだせるの
どんな未来を目指すも 何処に骨を埋めるも
選択肢はいくつだってある 言うなれば自由
そして僕は微かに左脳の片隅で君を待ってる
僕の心の中に 君が確かに住んでたような気さえもする
ときたま僕は 僕の愛する人の中に君を探したりしてる」
ミスチルの桜井和寿はシーラカンスをこう歌ったけど、私にとってのシーラカンスは片足鳥居の様な、そんな気がしている。
それにしても昨日の私は・・・イタかったなぁ~。約1カ月ぶりのアルコールはキツかった。
メールの言葉で、もしかしたら全然関係のないアイツを傷つけてしまったかもしれない。
けれどこれでよかったのだ。
君は心配してメールをしてきたの?それともただ、寂しかっただけ?
君に私の写真を見せたくてたまらないけど、見せたところで君は私の写真には全く興味を示さないだろうから
絶対に見せない!
酒は呑んでも呑まれてはいけない。またしばらく自粛しようっと。
◆長くなるけど、ここに山王神社の境内の前に建っていた碑の案内板にあった話を書いておこう。
「町内会長をしていたので翌日町内のようすを見て回った。
さんさんと照り付ける真夏の太陽の下にあちこちの畑一杯に
あるいは死にあるいは生死の境をさ迷いながらうめき苦しむ多くの人々、
達者な者は重傷者の看護に一生懸命立ち働いている。
意識のある者はすべて泣いて救いを求めた。
七八〇余人の総人口のうち二〇〇人くらいは負傷はしていてもまだ生きていたし、
達者な者も一五〇人くらいはいたのだが、それから十日くらい経ったころにはばたばたと死んでいき
完全に生き残った者はわずか二〇人ぐらいに過ぎなかった。
町内一七五世帯中家族そろって完全に生き残ったのは、山王神社の舩木氏の一家族だけである。
その日朝八時ごろの空襲で町内の防空壕奥深くに入り、そのまま壕内に遊んでいて
赤ん坊に至るまで完全に助かったというのである。」
(当時の町内会長、久保忠八さんの手記『原爆記』より。)