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いのちは儚い。
虫嫌いの人、ごめんなさい。
虫嫌いの私だけど、その日は1週間という短い命を終えようとしていた彼を放っておけなかったの。
4日の朝、3日にいきなり入院中の病院で昏睡状態になった叔母(母の妹)が亡くなった。
30代の半ばから膠原病とリウマチ、その薬の副作用で色んな大病と闘ってきた。
体調が悪くなって入院したばかりのことだった。
去年久しぶりにおじいちゃんの二十何回忌かの法要に、親戚不孝な私は約5~6年ぶりくらいに顔を見せた。
病状が悪化し、車椅子に座ったおばちゃんだけは変わらず笑顔で
「尚ちゃん、今度またゆっくり話そうね」と言ってくれていた。
先日の従兄弟の結婚式では久しぶりにたくさんの親戚が集まったので、とてもご機嫌だった。
詳細はもうはぶくけど、いのちは儚い。
他にも表現があると思うけど、儚いとしか言いようがない。
幸せだったのは、大勢の親戚に看取られて亡くなっていったこと。
大勢の親戚が大声で代わる代わるベッドの側に立ち、名前を呼んだらまぶたがピクピクした。
でももうまぶたをあける余力も残っていなかったと、叔父は言った。
そして家族に恵まれていたこと。
叔父も最後の最後まで名前を呼びながら、「愛している」と言っていた。
私の従兄妹にあたるふたりの子も、たくさんの孫にも恵まれていた。
小さな頃の私たち三姉妹は、母が入院しているときによく子守をしてもらっていた。
灰になった骨。長い間身体のあちこちに埋め込まれていた、ボルトやセラミックやペースメーカー。
例え息をひきとったとしてもこの世に姿がなくなると思うと、気が狂いそうになる。
今月24日に59歳を迎えるという若さだった。
「日本一じゃなく、世界一のかあちゃんやったね!」
家族は泣きながらも口を揃えて言っていた。
叔母には私と同じ年の息子(私のいとこにあたる)がいるのだが、昔から霊感が強かった。
病院の対応に怒りをぶつけながら、逃げるようにして叔母を我が家へ連れて帰った。
連れて帰った夜、家中の至る所で叔母の独特な入院中の匂いがふっとしたそうだ。
よく昔、家族4人で食事をしたリビングで食事をしながらのふっと香るその匂い。
廊下を歩く叔父の後ろを付いていくようにふっと香るその匂い。
叔母はきちんと家に帰って来てたんだよ、と言っていた。
私にはもう、18歳と15歳になる姪がいる。8歳と、もうすぐ4歳を迎える甥もいる。
例えばわたしが死んだら、彼女たちは泣いてくれるだろうか?
6月に京都のおばあちゃんが亡くなった時はある程度の覚悟があったのだが
今回は本当にいきなりの事だった。
長寿のうちの家系ではなかなか人の死に接することなく生きて来た幸せ者の私であったので、
いきなりの事に最初は実感が湧かなかった。
昏睡状態になってからも希望を捨てず、大分の高塚地蔵まで行ったのに、祈りも届かなかった。
同じように体調を崩しかけていた母方のおばあちゃんは、自分が先に逝くものだと思っていた。
人間、何があるかわからない。
だからこそ悔いのない人生を送らないといけない。
お坊さんは「愛する者とも、必ず別れなければならないという事実を真正面から受け止め、わが身を見つめなおしなさい(愛別離苦)」
と言ったけど…。
「なんでこう、体が悪くなったりするんかねー。」という問いに対し別の叔父が、
「俺たちも年を取った証拠だよ。」と言っていた。
前回の記事を書いた時、何故か昔の事を思い出しながら悲しい気持ちになって泣いていたのは、
もしかしたら叔母の寂しい気持ちを少しだけ私が感じ取っていたからかもしれないな。
同じ夜、叔母は「夜が長いから夜になるのが怖い」と言っていたそうだ。
叔母はあんまり顔を見せなかった私のことなど、忘れてしまっているかもしれないけれど。
そして私がベッドに入った時間に、叔母は突然昏睡状態になったらしい。
年を取れば仕方のないことだけど、もうあんまり、こういう悲しみは経験したくない。
「もういちどやり直すのなら どんな生き方がありますか?」
京都滞在。
19日に京都のおばあちゃんが亡くなりました。
24日で95歳を迎えるという大往生でしたが、やはり最後は苦しんだそうです。
実は小さい頃から離れて暮らしていたので、福岡を出る時はあまり実感が無かったのですが、
京都へ着くと同時に色々な想い出が蘇りました。
若い頃は小学校の先生をしていた、とても美しい女性だったそうです。
普通戒名は亡くなってから頂くのが一般的ですが、おばあちゃんは既にハタチの時に戒名を授かっていたそうです。
その後おじいさんと出会い滋賀県から京都へ嫁いで来ました。
父を含めて4人の男の子を育てました。
お裁縫がとても得意で、自分の着物を縫ったり、よく小さい頃の私はお手玉を着物の生地で作ってもらっていました。
京都へ行くまでは忘れてたのに、斎場へ着いて遺影を見ると、おばあちゃんの仕草や品のある京都弁が蘇ります。
親戚も全員揃って、小さい頃にしか会っていなかったいとこやチビっ子とも仲良しになっていました。
父も久しぶりに兄弟4人が揃って、とても嬉しそうでした。
おばあちゃん、引き合わせてくれてありがとう。
おじいちゃんの時もそうだったけど、おばあちゃんとのお別れの時の父の涙は甥っ子の小さな胸にも「かなしさ」が伝わったようでした。
もうここのところ8年間くらい認知症で、私たちのことなど忘れてしまっていたおばあちゃん。
3年前に家族でおばあちゃんに会いに行った時、母の事も私たち姉妹の事も忘れてしまっていたのですが、
お父さんを指さしてお嫁さんが、
「この人誰かわかるかー?」と尋ねたところ、
「よしお!」とすぐに大きな声で答えたのです!
いつまでもどんな事があっても母親は、我が子の事を忘れないんですね。
最後は大好きなプッチンプリンを食べて亡くなったそうです。
とても綺麗な顔をしていたおばあちゃん、天国でも元気で暮らしてください。
特に色々心労が祟って大変な、お父さんの2番目のお兄さんを見守ってあげてください。
私に出来るのはお願いされた集合写真を撮る事と、そのプリントだけ。
京都の親戚が喜ぶのがとても楽しみなので、丁寧に仕上げようと思います。
昨日は父の日だったね。私は一日遅れで今日実家へ行って来ました!
姉妹で夏向けのボトムス(よしお曰くズボン(笑))を2本プレゼントしました。
3年前の夏、父の実家の京都へ行った時にアルバムで見つけた写真を写メ。
初公開かしら?うちのよしおの若い頃です。O型京オトコ。
小さい頃の私は早朝からよく父の仕事に付いてってたなー。
相変わらず今日もよしおはトランクス一丁でした。
この写真、今でこそ私自身が一眼レフを楽しんでいますが、
私の叔父(母の弟)は大学で写真を学び、55歳に至る今でも写真をやっています。
本職はね、お坊さんです(笑)。
その叔父が撮ったもので、昔の綺麗な写真が結構残っていました。
大学時代から仲良しの友達もよしお、見たことなかったやろ?
これが声高のよしおでっせ!
写真を写メしたからちょっとぼや~っとしてるけどね。
こちらはマチ子です。大阪生まれ福岡育ち。
残念ながらヒップホップ育ちではないっす。
大型バイクの免許も持っているし、いきなりダイビングとか始めるし、
2tトラックの運転もしてたし、よさこい祭りで全国行脚してどっか行っちゃうし、
即死でもおかしくない事故に遭っても生きてるくらい不死身やし、
シティマラソンとか参加しちゃうし、60過ぎてお店始めちゃうし…
私が小さい頃からアグレッシ部なB型オンナ。
一家庭の母としてはあんまり尊敬しませんが(笑)、同じ女としては目標にしたい存在よ。
よしおに同情しちゃうよ。大変だったねって(笑)。
当時は化粧部員だったんだけど、時は流れ・・・
今は全く右の写真の面影がありません。
って人の事言えなくなるんだろうけどね(笑)。
私事ですが、昨日からお味噌を無添加にしました。
玄米はもうずっと、ひとりゴハンの時は食してますが、いーーんです!快腸です!
日々両親に感謝。
いつもありがとうございます。
実物の印象とメールの印象って違うとなんか怖くない?
だいたい、ゴッドファーザーとかスカーフェイスが大好きな、アウトロー寄りのわたしに
正反対のご職業のあなたは不釣合いだわ!
何が「内緒♪」だよぅ!このぉ!
何かあるな・・・と勘繰ることだけが得意になっちゃうね、この年になると。
まぁ、わたしお得意の“勝手な思い込み”かもしれないけど。
そんな事より、日曜日はちょっとした仕事(?)も兼ねて、母のお店を取材して来ました!
すっごい田舎の山の中にあるのであんまり需要のないお店だし、誰にも教えたことないんだけど、
60を目前にして調理師免許を取って、3年かかってやっと今年1月に借金を返し終えたという母のお店です。
人間、年をとっても「行動力」と「どーにかなる精神」でどーにでもなるようです。
母のそんな遺伝子を引き継いでいればいいのだけど、やはり保守的な父の遺伝子もわたしにはあるわけで。
後日また書かせて頂きます。
とりあえず写真のような外観のお店です。